ペーパー・ナイフは、ある仕方でつくられる物体であると同時に、一方では一定の用途をもっている。ペーパー・ナイフの本質とは紙を切ること、材質や商品としての実存は本質という目的があってはじめて現れる。では、俳優ではどうか。人間は本質のまえに実存があるが、俳優は実存のまえに役という本質がある。だからこそ、実存は多様であるし、そのありかたも興味が尽きないものなのであろう。役という本質を実存としての俳優がとらえるにはどうしたらよいだろうか?
俳優の本質たる『役』は、単にキャラクターという容れ物というわけではない。ペーパーナイフの本質が《紙を切る》ことであるように、役の本質にはかならず《与えられた役割》があるはずである。
であれば、その役割を理解せずに実存をもとめても目的ははたさないだろうし、役割を理解しない実存は見当違いなものになってしまう。
Twitterでのやり取りを許可いただいたうえで転記しております。
@yamahidekazu 自分は実在しない。に主観置いてますね…俳優に実在を求めたら役に実在もあり俳優ではなく言葉に俳優を定義してしまうと実在しない。まぁ俳優は実在しない仕事として実在しているだけ。イデアに嵌るw
@Shockhearts777 まぁ、だからこそ虚構の現実とかともいうんでしょうしねぇ。役を演じるときに俳優の技術や方法論なんかはぜんぶ手放して反応に委ねることになると思うのですが、より主体的に向き合う…もっというと自身に主体的に向き合っているように錯覚させるには本質踏まえたうえでの実存なのではと考えますわ。
@yamahidekazu 自分の師匠は俳優こそ虚構だけど見てくれてる人には現実。虚構だけど現実と錯覚させるから何者にも現実を広げれる。俳優が終われば自分の現実に帰るそこを忘れてしまうと俳優では無くなる…初めは何言ってんだこの人だったけど最近ちょっと分かる気がする。自分の経験はここまで!若い人に繋ぎます。
実存主義を説明するには、わかりやすい二つの定式が提示されている。
第一の定式は「実存は本質に先立つ」
第二の定式は「人間は自由の刑に処せられている」
以上の二つである。
実存とは、この世界に現実に存在するということ。他方本質とは、目には見えないもので、物の場合であればその物の性質の総体…どんな素材か、どのようにつくられているか、何のために使われるかを示す。